常磐津三味線方としての岸澤家は、岸澤家第三代の初世岸澤式佐が、二世岸澤古式部を名のって、常磐津流祖文字太夫の相三味線となり、明和六年(1769)江戸中村座の顔見世興行で「紅葉雲錦釣夜着」を演じたことに始まります。
従って今年で満二三三年になるわけです。
常磐津を興した家ではありませんが、現存する曲の八割方は、岸澤家の作曲であります。
明和六年以前の流祖の相三味線は、佐々木市蔵でした。
流祖文字太夫は、佐々木市蔵の没後、完全に豊後節を脱し、自らの音楽の確率を図りました。
それには豊後臭の抜けない佐々木一門の三味線方より、敢えて二世岸澤古式部と組んだものと思われます。
常磐津節の風は、流祖文字太夫と二世古式部によって興り、二世文字太夫と三世古式部によって定着したといってよかろうと思います。
歌舞伎の興行が通し狂言主体だった江戸時代には、常磐津節か富本節或いはその別れの清元節による一幕が出るのが常でしたから、豊後三流は劇場音楽として不可欠でした。
中に舞踊に適した常磐津節の需要は多く、他の二流に対し、優位を保って来たのであります。
富裕な商家の主や内儀にも品格のある常磐津節を好んで稽古する人が多く、為に常磐津節人口は、相当数に昇ったと考えられます。
しかし、歌舞伎興行が見取り狂言方式に転ずるにつれ、常磐津物の需要が減じて来たことは、まことに憂慮すべき事態です。
常磐津節は歌舞伎音楽(劇場音楽)として発達して来たのでありますが、本来は語り物であり、江戸時代より素浄瑠璃の会が催されてきました。
これを是非、今以上に復活させたいものです。
それには、一部の愛好家のみを頼っているのではなく、常磐津節人口の裾野を拡げて行くく努力をしなければなりません。
岸澤家、二三四年の来年を期して、まずこの方面へ取組みたく、準備に専念して居ります。 |