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  常磐津曲「双面」は安永四年(1775)に、初代中村仲蔵が初演したものを原型とし、現在上演される舞台は、四代目市川団蔵が寛政十年(1789)森田座で上演した「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)」の四幕目大切「両顔月姿絵(ふたおもてつきのすがたえ)」を定本としています。この狂言はその名の通り、隅田川物の一つであり、序幕の深川二軒茶屋から洲崎、三囲堤と隅田河岸が背景に扱われ、大切の「双面」は「隅田川渡しの場」となっています。
さて今日のテーマは、その舞台となった渡し場を訪ねようということであります。
   
         
  江戸時代の隅田川の渡し場は、橋が永代・新大橋・両国・吾妻の四橋しかなかったため、その役割は大きく、竹町から上流に限っても六ヶ所の渡し場がありました。そのいずれかが双面の舞台にあたるということですが、ちなみに現在上演される舞台背景を見てみると、川を挟んで向こうに待乳山聖天宮が見えますので、これは「乗合舟」などと同じ「竹屋の渡し」(墨田区側=三囲の渡し)とみることができます。竹屋の渡しは三囲堤と今戸・山谷堀を結ぶ、最も華やかで遊興気分に溢れた渡しで、隅田川と言えば、まずこの竹屋の渡しが、代表として持ち出されるのも理解できます。
 しかしこの作品が隅田川の「鐘が淵伝説」を背景としていることを考えるとき、そう簡単に現状の道具を肯定してしまうことはできません。そもそも鐘が淵伝説とは、隅田川が綾瀬川に分かれるあたりで、釣鐘を運搬中の船が沈んだというもので、「沈鐘伝説」とも言われます(もちろん東武鉄道鐘ヶ淵駅は、ここからとった駅名)。この伝説を底流においた「双面」の舞台は、上手に道成寺のように鐘が釣り上げられていたものでした。この型は、中村勘九郎の平成中村座で復活されています。法界坊と姫の合体霊が観音の尊像を突きつけられて鐘の中へ隠れ、再び鐘の中からのち後ジテとなって現れるという段取りです。
   
         
  この鐘が舞台に存在しているということは、場所が竹屋の渡しではどうも距離感が合いません。どうしても沈鐘伝説が残る寺の近くが有力と言うことになります。さていまこの伝説を主張する寺はかつての橋場の三寺、すなわち亀戸の普門院、今戸の長昌寺(今戸2-32)、この長昌寺には由来を彫った銅鐘が存在しています。そして橋場の保元寺(橋場1-9)。いずれも決め手に欠くところですが、こと芝居に関して言えば「双面」の原型を初演した中村仲蔵の時に、崇禅寺と言って実在の法源寺を当て込んでいますので、この寺(現在の保元寺)を意識していたと言ってよいでしょう。さすれば、その近く、鐘が淵からも遠くない「橋場の渡し」が「双面」の舞台と目された可能性が高いと言えます。『江戸名所図絵』にも、「隅田河の渡」の項で「橋場より須田堤のもとへの古き渡なり。今は橋場の渡と唱なふ」とあり、橋場の渡しを隅田川の渡しと同一視していますので、芝居の場名とも齟齬は出ません。まだまだ資料を洗い直さないと断定はできませんが、いまのところは「双面」の舞台を「橋場の渡し」と推しておきましょう。
橋場の渡し
   
         
  橋場の渡しは現在の台東区橋場一丁目と墨田区堤通り一丁目とを渡したもので、いまの白髭橋の近くにあったとされます。そうすると、もし台東区側なら川向こうに見える景色は聖天様ではなく、白髭神社などでなくてはなりません。また墨田区側なら、うーん、あまり絵にはなりません。無理してでも聖天様を入れたくなります。芝居は難しいものです。ちなみにあの在原業平が「名にしおはばいざ言問はん都鳥我が思ふ人はありやなしやと」の名歌を詠んだ渡しは「隅田川の渡し」、つまりこの橋場の渡しとの説が強いようです。