初世文字太夫は、豊後節の得意とした男女の道行をテーマとした舞踊曲のほか、狂言作者の壕越二三治の提携を得て、さまざまな趣向を取り交ぜた顔見世狂言の一幕に出演を重ね、新境地を開いていきました。明和期(1764-1772)頃までには、同じ豊後節系の富本(1748年に文字太夫の弟子小文字太夫が創流)ともに、江戸浄瑠璃界の雄として地歩を固めました。
初世文字太夫時代の現行曲には、創流当初の作曲とされる《老松》、《蜘蛛の糸》(1765)などがあります。
初世文字太夫の相方を勤めた三味線方は、初世佐々木市蔵・初世岸澤式佐です。また、初世文字太夫を支えた創流当初からの太夫として、志妻太夫・造酒太夫らがいます。
遅れて常磐津に参入した若太夫も、常磐津興隆期の代表的な太夫でした。
若太夫は明和6年(1769)に再独立して富士岡派を興し、その翌年には志妻太夫と造酒太夫が、豊名賀派を興して分派しましたがまもなく衰退しました。