幕末期の常磐津界をリードし、流儀を大成させた人物は、四世文字太夫(1804-62、後の豊後大掾)と、五世岸澤式佐(1806-67、後の古式部)でした。
市川男女蔵の次男で初代文字太夫の曾孫にあたる四世文字太夫は、流儀をよくまとめて新興の清元に対抗し、大器晩成の太夫として知られました。五世式佐は、早くから芸才に秀で、数多くの名曲を作曲しました。その門弟である岸澤三蔵の書伝(『老の戯言』)によれば、五世式佐は、まるで北斎が筆で風を描くごとくに、三味線で螢の光を表現したといいます。
両人は、文政後期から30余年にわたり、江戸三座で共演しました。
その現行曲には、《宗清》《将門》《三人生酔》《靱猿》《新山姥》《勢獅子》《三世相》などのほか、変化舞踊曲も数多く残ります。
常磐津本来の重厚な語り口とスケールの大きな構成を生かしつつ、三味線の手付けに新しい工夫を凝らした名曲が数多く生まれました。

安政期(1854-60)頃から、三味線の岸澤家に独立の気運が芽生えたらしく、万延元年(1860)にはじめて常磐津姓の三味線弾き、岸澤姓の太夫があらわれました。その後しばらくの間、両派は分離独立して活動を続けますが、明治15年(1882)に和解に漕ぎ着けました。
分離期の岸沢派は、素浄瑠璃を中心に《お光狂乱》など数多くの現行曲を残しています。